
ダッジといえば逞しい雄羊であるラムを象ったエンブレムで良く知られています。 このエンブレムが採用されたのは 、1932年モデルからのこと。最初のラムは単なるエンブレムではなく、ラジエターグリルの上に装着されるいわゆる立体的なフードマスコットでした。このマスコットをデザインしたのは彫刻家のアパード・フェアバンクスです。
ここでラムが選択された理由、それはマスコット案の決定に際してウォルター・P・クライスラー自身が様々な動物の中から 「 頑丈で頼りになる 」というダッジ車のキャラクターに最も相応しい動物としてロッキー山脈の王者とされていた野生の雄羊を挙げたことと言われています。以来、ダッジにとってのラムは時代ごとにその形を少しずつ変えてはいるものの、まさにブランドの象徴として共に歴史を積み重ねている存在です。

ジープの歴史は、第二次世界大戦中の1941年に幕を開けます。軍事車両としてアメリカ軍に供給されたウイリス・オーバーランド社製の「ウイリスMA」からジープの歴史が始まります。軽量で速く、しかも頑丈なその車は、今まで兵士たちが見てきた車やトラックとは全く違う乗り物でした。当時の車名はジープではなく、MAというコードネームが使われていましたが、兵士たちがジープと名付けたと言われています。もともとの語源として「General Purpose(軍事用トラックの名称)」の頭文字「GP(ジーピー)」が「Jeep(ジープ)」となったという説がありますが、真実なのかどうかは、今となっては謎になっています。
終戦間近の1945年、ウイリス・オーバーランド社は、軍事用とは別に民間用ジープを発表しました。それが世界で最初の民間用モデル「CJ-2A」です。頭文字のCJは「シビリアン・ジープ(民間用・ジープ)」を意味します。これが市販車としてのジープの始まりです。
CJ-2Aは、テールゲートや電動ワイパーなどの市販車として街乗りできる為の保安基準を満たし、世界中でライセンス生産されたベースモデルでもあります。日本においても、CJのノックダウン生産が行われ、それが後に三菱ジープとなります。
CJは改良を重ねながら、1986年まで40年以上もの間生産されました。ジープの歴史を語る上では欠かすことのできない、初めての市販車であり、ロングセラーモデルです。
CJの後継モデルとして、1987年にはYJが発売されました。この年から、ジープはクライスラーの傘下となります。YJにはCJのような意味合いはなく、単なる開発コードとなりますが、このモデルから「ラングラー」という名前が付きました。
ラングラーは、初代YJ(1987~1996)、2代目TJ(1997~2006)、3代目JK(2007~現在販売中)と日本にも正規輸入されている、ジープを代表するモデルです。
この形こそジープだと思う人が多いほど、昔も今も変わらない個性的なデザイン、軍事車両をルーツとする高い走破力は現在のモデルにも受け継がれています。

旧クライスラー社の創設者であるウォルター・パーシー・クライスラーは、1925年に自身の名を冠した自動車メーカーを立ち上げました。この時点での彼のキャリアに関する株式市場での評価はというと危機に瀕した企業を回復させる名医というもの。実際、彼はそれまでに創業直後のジェネラルモータース社、ウイリス・オーバーランド社、マクスウェル・チャルマース社といった自動車メーカーの再建にその辣腕 ( らつわん )を発揮、自身の自動車メーカーを手にすることとなったのは、彼に期待を寄せていたデトロイトの資本家達の支援を受けてのことでした。
そんな彼が兄弟亡き後、経営上の問題を抱えていたダッジ・ブラザーズ社を支援するため 1928年に自らのグループに迎えることとなったのは、その高い基礎技術力を評価したがゆえのことだったと言われています。

幼い頃から機械が大好きだった「 ジョン 」 と 「 ホレイス 」 のダッジ兄弟にとって、将来機械関係の仕事に就くことは半ば当然のことでした。 2人が初めて自身の名を冠した機械部品製造会社を設立したのは 1901年のこと。 ジョンが 36才、ホレイスが 32才の時でした。この時点で主として手掛けていたのは、当時最新かつ庶民の憧れの乗物だった自転車用部品でした。 しかし数年を経たずして 2人はさらに先を見越した自動車部品の開発と製造に乗り出すこととなりました。
当時、デトロイト周辺には自動車関連企業が次々と立ち上がりつつありましたが、基本となる部品を全て自社で開発できる企業はわずかでした。
ダッジ・ブラザーズ社はその少ない中の1つだったのです。
1903 年から自動車部品の製造を開始することとなったダッジ・ブラザーズ社にとって、最初の重要な顧客はアメリカにおけるガソリン自動車のパイオニアというべきオールズ社でした。さらに自身の周囲に優れたブレーンを集める努力をしていたヘンリー・フォードもまた、本格的な量産開始を前にさまざまなコンポーネンツをダッジから購入することとなります。
しかし好事魔多し。
1920年にアメリカを襲ったスペイン風邪に兄弟は相次いで倒れ、まずジョンが。そしてその年の終わりにはホレイスがこの世を去ってしまいます。創業者であり優秀なエンジニアでもあった兄弟を失ったことで、ダッジ・ブラザーズ社は最初の経営危機に見舞われることとなるのです。